スーパーハッカーコンプレックスに対する現時点の答え
- essay
漠然とした「自分は本当の技術者じゃない」という気持ち
なんとなく、そういうものを抱えながら生きている。内訳はいろいろある。
まず、結構大きい気がしているのは理数系に対するもの。中学時代こそゲームを自作したり偏差値80を叩き出したりして謎に神童ルートを歩んでいたものの、高校時代に中途半端な遊び癖ができてから一切そういう生産的な遊びをやめて、大した意志もなく「楽そうだから」と文系を志望した。大学こそ理系だけど、頭悪い人たちと酒ばかり飲んで過ごしたので学問に対する熱意は最後まで持てず、極めて自堕落に過ごして卒業要件ギリギリの単位数だけ取り、逃げるように卒業した。そうやって意味を見いだせずにいた数学やCSが、アカデミアではなく商業プログラマとして生きる人間にとってさえ人生を賭して向き合うに値するような面白コンテンツだったということに気付いたのは就職してからそれなりに経った日のことだったと思う。
あとは自分のオタク性の無さに対しても思うところが色々ある。ちょっとかじれば「ふーん、こういう感じか」と満足してしまう。知識の浅さは恥じるくせに、深いところまで掘りぬくモチベーションはない。もっと端的に言うと知的好奇心が絶望的に欠落している。今まで自分から積極的に学んできたことは生活のうえに必要性が生じたからであって、それがなければ「満足した豚」としての生活を謳歌できてしまう底の浅さを、それとなく自覚しているところはある。
ということで、結構長いこと「こんな自分が果たしてエンジニアとして生きていけるのだろうか」という悩みを抱えながら生きていた。
「純粋な技術者」として生きた経験の欠如
僕は学生時代にアルバイトとしてWeb制作の仕事をしていて、新卒ではデザイン会社のエンジニアをやっていた。どちらも受託であり、自分以外のエンジニアと協働する機会は稀である。つまり評価の場においても直接自分が生み出した成果物を目にした人間の意見は考慮されないわけで、退職するその瞬間まで「結局自分は技術者としてどのぐらいの存在なのか」という答えが出なかったことに対しては割と思うところがあった。
今の自分から結果論で返すなら「キャリアを棒に振る」はちょっと言い過ぎなんだけど、「棒に振っているのでは?」と怯えながら生きていたのは本当だと思う。エンジニアという肩書きを使いながら他メンバーの仕事を手伝ったり巻き取ったりしていて、PjMをやったり、UIを作ったり、時には「このプロジェクトのビジョン・ミッションを決めましょう」みたいなチームビルディングさえやっていた。ロクにコードを書く時間もないまま雑務に追われて消耗しているうち同い年の @shqld がめっちゃでかいカンファレンスで登壇したりして、「俺はもうこの組織を出たらエンジニアとして生きていけないかもしれない」という不安は限界に達していたと思う。先輩を捕まえては「俺って何者なんですかね…」という禅問答を投げつける限界こじらせムーブを繰り返していた。
話が逸れてしまったけど、つまるところ僕は「あなたはプログラマなので、プログラムを書いてください。優れたプログラムを書いたら、給料を上げてあげましょう。」という環境に身を置いた経験がないことを割と強いコンプレックスとして持っていた。結局いつも何でも屋になってしまう。そういう雑務から足を洗って一技術者として評価されたいという焦りを常に抱えていて、それはいつの間にか「今更そんな評価テーブルに載ってしまったら戦力外かもしれない」という恐怖に変わっていた。
ちなみにこういう感情がピークを迎えたのは新卒3年目の話なので、完全にそんな訳ねえだろバーカだし、まあそうやって若いなりに将来を色々悩んじゃう感じ、今考えるとちょっと可愛いなと思う。ウフフ
ないものねだりじゃんという回帰
ところで、前述した「あなたはプログラマなので、プログラムを書いてください。優れたプログラムを書いたら、給料を上げてあげましょう。」について、ある問いを考えることができる。
「そんな職場があるとして、そこで働きたいと思う?今持っているプロジェクト進行やUIデザインに対する裁量を全て捨ててまで?それがどういうことなのか分かってて言ってる?」
うーむ。こう考えると正直あんまり魅力的ではない気がしてくる。作り方を作る力を捨てるのは嫌だなって思う。
自分でもあまり考えたことなかったけど、僕がやってることはむやみやたらにやってる訳じゃなくて、ある程度やる意味を見出したうえでプロジェクトを成功させるために好き好んでやっている。僕はプロジェクトの成功のためなら何でもやって然るべきだと思っていて、仮に「あなたはプログラマなので」と言われても会議体とかUIのレビューフローとか色々なことが気になって結局口を出すだろうと思うし、そうだとすればそれは環境の問題じゃなくて個人の志向性の問題なのではないか。僕がエンジニアという肩書きで色々と雑務をやっているのは、強いられているからじゃなくてそうしたいと思っているからなのではないか。 僕は結局、何回生まれなおしても職責の隙間に向かって突進していくのではないか。
きっと僕が「本当の技術者」だと思って崇拝している人たちだって、色々と悩んで、多くのものを捨てて、そしてそれを悔んだりしながら、それでもその道を信じて選んでいるのだ。そこに大した理解もないまま全能感を見出して「いいっすよねー」というのは割と失礼な気がするし、なんというか、お前はお前の人生を生きろよという気持ちにもなる。
僕は、なにがなんでも引いた手札で勝負すべきとは思わない。時間や労力を惜しまなければ役を作ることはできる。ただ、そこで捨てることになる手札について僕は少しも考えていなかった。
現時点の答え
僕は数学もCSもよく分からないし、ひとつの領域を執念的に掘り下げるような志向性を持っていないし、前述したような「本当の技術者」ではない。その代わり、プロジェクトに投げ込めばとりあえず状況を好転させる、そのためなら仕事を選ばず何でもやる、そういうタイプの人間である。これは優劣ではなく差異であって、まあ、良いんじゃないかなと思う。
それはそれとして。
僕は自分の無学に向き合いたいとも思っている。これはコンプレックスとかアイデンティティに対する焦りとかじゃなくて、もっと純粋な好奇心である。今こうして「本当の技術者」ではないこと、今まで通り何でも屋として生きていくことを開き直るのであれば、そうやって自分に対して期待されていないこと、役に立たないかもしれないものを拾い集めて時間を溶かすのは別に悪くないと思う。という気持ちで、最近は高校数学をやり直している。たのしい。
先のことはともかく、今こうなってしまったものは変えることができない。そこには良いものも悪いものもあると思うけど、目を背けたり悔んだりしても「こうなってしまった」ことは変わらないので、あまり良いことはない。というか、どうせ変わらないなら受け入れて、なんなら愛してしまった方がよい。というのをニーチェが「 運命愛 」と呼んでいる。神が死んだかはともかく、僕はこの考え方に割と賛同する。運命大好き!
おわり
前々から離散的に考えていたことを昨夜ぼやぼや話していたら急速に繋がって一本の線になった感じがあって、ウォーという感じで書いた。こういう話は答えを求めるよりも都度考えて変化を観察した方がいいのかもしれないと思うので、いったん雑に公開してみることにした。
今あんまり悩みがないので、このまま色々開き直りまくってハッピーに生きていきたい。イェーイ